第237回 深智録「自己実現の経営:アブラハム・マズロー④」

「目指すべき目的(価値・理想)を明らかにする」

 マズローは、目指すべき目的の内容、価値や理想が明らかにならなければ、その手段・経路も考えようがないと考えました。マズローは、『存在心理学に向けて』(Maslow、1968)の中で、「心理学者は完全と不完全、理想と現実、ユーサイキアンと現存するもの、永遠なるものと一時的なもの、目的心理学と手段心理学を両立しなければならない」と述べています。つまり、マズローは、まずは現実を述べるだけでなく、理想を述べる必要性があると考えていました。そうであるから、理想としての自己実現論を展開したのです。しかし、同時に、現実および手段について考えることの重要性も認識していました。それが、「欲求階層説」に代表されるプロセス論として論じられているものです。かくして、マズロー理論は、自己実現論という内容論とともに、欲求階層説に代表される自己実現に至る経路を論じるプロセス論から構成されるようになりました。つまり、目指すべき到達点としての理想論と、そこに至る手段論としての現実論から構成されているのです。

 マズローの言う「自己実現の経営」(Eusychian Management)はどういう意味であるのか。「広い視野で、はるか先まで見据え、価値を重視し、ユートピア的な視点をもって考える勇気をもった経営者や組織論の研究者にはほとんど出会ったことがない。概して彼らは、

離職率の低下や欠勤率の低下、士気の向上、増収といった指標によって経営の良し悪しや

組織の健康度を測るのが実際的だと考えている。しかし、このやり方では、開明的な企業

における全体として心理的健康に向かう成長や自己実現、人格的成長といった側面が完全

に見落とされることになる」(Maslow、1998)と述べていることから見ると、「心理的健康に向かう成長」「自己実現」「人格的成長」という内容が、企業の経営プロセスの中から生み出されなければならないという結論になります。

「心理的健康がなければ、人間の幸福はない」

 マズローは、あくまで心理的健康の実現の場として、経営、企業を見出したのであり、

啓蒙的経営論の大半でそれが見落とされていると感じました。そして、マズローはむしろ、こうした既存の経営論で見落とされている〈自己実現=心理的健康の実現〉が、企業の利益にもつながるという考えをもっていました。すなわち、こうした「ユートピア的、ユーサイキアン的、道徳的、倫理的な提案は、企業のあらゆる面を向上させることができる」と主張したのです。この視点は、渋沢栄一の「道徳経済合一」の理念を、マズローが心理学的観点から提唱したものと考えることができます。企業においては、精神的側面、道徳や倫理というものが非常に大切であり、そういう要素が欠けるときには、経営はうまくいかないという信念を、心理学者の立場からマズローは抱いていたと思われます。

 マズローの欲求段階理論、あるいは欲求階層説は、あまりにも有名であり、いろいろな場面で引用される「便利なグッズ」として利用されていますが、マズローは20世紀の先頭を走るアメリカの経済世界を見て、深く憂慮したと思われます。人々の心理的健康(精神的幸福)の実現がなければ、決して幸せなアメリカを作ることはできないと。

2024年8月6日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

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