連載ビジネス人物学「深智録」

☝法人会員・個人会員・Web会員にご入会いただくことで、過去の全ての「深智録」をご覧いただけます。

渋沢栄一・カーネギー・二宮尊徳・ピーター・ドラッガー・近江商人・石田梅岩・アンドリュー・カーネギー・トーマス・エジソン・岩崎弥太郎・ヘンリー・フォード・クレイトン・クリステンセン・ビル・ゲイツ・スティーブ・ジョブズ・田中久重・ジョン・ロックフェラー・松下幸之助・その他、世界を変えた経済人・経営者について深い視点で学ぶことができます。

 

第140回 深智録「豊田佐吉③:佐吉の遺産の継承者たち」

「豊田佐吉の結婚」

 豊田佐吉は、二度、結婚しています。一度目は、佐原豊作の三女たみとの結婚ですが、これは1893年3月(佐吉、25歳)のことで、二人の実質的な結婚生活は非常に短く、一緒に住んだのは10カ月にも満たない期間でした。たみは、1894年、豊田家で長男の喜一郎を生みました。この喜一郎は、トヨタ自動車の創業者で、トヨタ自動車工業の第二代目の社長を務めます。そして、喜一郎の長男が章一郎、章一郎の長男が、現在、トヨタグループを率いる章男と続きます。

 二度目の結婚は、林政吉の長女、浅子との結婚です。二人は、1897年故郷で結婚式をあげ、娘の愛子が生まれます。浅子は、名古屋市宝町にある豊田商店で働いていた女性です。浅子は働き者で、経理も得意でした。浅子は佐吉にない側面を十分に補い得る女性であり、聡明な女性であったという評価を受けてもよいでしょう。

 浅子は、佐吉の没後、夫の偉大さを伝えることに心血を注ぎました。現在、各所に残る佐吉の胸像やレリーフは浅子の手作りによるものが多く、夫の事績を称える浅子の献身ぶりは見上げたものです。また「豊田佐吉傳」を田中忠治に執筆させて、出版しています。佐吉没後も、浅子の存在は、まさに「ゴッドマザー」と呼んでもよいほどでした。

「自動織機と自動車の二つの流れはやがて一つに」

 佐吉には、先妻たみの息子「喜一郎」と、後妻浅子の娘「愛子」の異母兄妹ができたわけですが、佐吉が愛子の婿養子に、三井物産名古屋支店長の児玉一造の弟の利三郎を迎えると、ここに、浅子の配慮が働き、喜三郎を廃嫡し、利三郎を家長に据えるという事態となります。そして、婿入り後、すぐに豊田紡織の経営を任され、豊田自動織機、豊田自動車工業の初代社長に就任します。

このような流れを喜一郎の存在を無視した僭越行為と見るか、佐吉を支え、豊田家のために頑張った後妻浅子の功績による愛子・利三郎夫婦へのご褒美と見るかは、人それぞれです。

付け加えるとすれば、トヨタ自動車の実質的な基礎形成、創業の役割を果たしたのは、二代目社長の喜一郎であったことは確かです。

 喜一郎と利三郎のギクシャク関係は、佐吉没後の自動車事業参入をめぐって、破綻します。リスクを厭う利三郎は、喜一郎を禁治産者にしてまで、抑え込もうとしますが、愛子と豊田英二(佐吉の弟平吉の二男)の支持で、喜一郎に軍配が上がり、実質的に、喜一郎が興した豊田自動車工業は軍需に乗って大発展を遂げます。

 一方、利三郎が固執した紡績・織機事業は、第二次大戦勃発に伴う輸出停止により、壊滅し、自動車事業へ再編されました。しかし、ドッジ・ライン恐慌で自動車の方も経営危機に陥り、喜一郎は詰腹を切らされ、利三郎は血縁で子分の石田退三を三代目社長に据えました。朝鮮戦争のトラック特需で、V字回復の業績を上げた豊田ですが、喜一郎の急死により、石田退三は、喜一郎の長男章一郎を取締役に迎え、1967年、喜一郎の従弟豊田英二に五代目社長を禅譲します。石田退三と共に、豊田英二は「トヨタ中興の祖」と呼ばれています。

2022年6月20日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

第138回 深智録「豊田佐吉①:「発明で社会の役に立とう」の決意」

「トヨタ自動車の原点、始原としての豊田佐吉」

 トヨタ自動車が、世界的な企業に発展繁栄している今日の姿を見て、豊田章男社長(任期2009年~)の活躍に大いに期待する人々が少なくないことは理解できますが、やはり、自動車産業に乗り出して、その礎を築いた創業者の豊田喜一郎(1894-1952)、すなわち、豊田章男の祖父である喜一郎に思いを馳せざるを得ません。

その喜一郎の自動車に賭けたモノ作りの魂も父の佐吉からきていると知れば、当然、豊田佐吉(1867-1930)なる人物を理解しなければならないという結論に至ります。豊田佐吉の考え方を知るには、トヨタグループ各社に受け継がれている「豊田綱領」を見ると、きれいに成文化されているので、一目瞭然に分かります。

「豊田綱領」は、一)上下一致、至誠業務に服し、産業報国の実を挙ぐべし、一)研究と創造に心を致し、常に時流に先んずべし、一)華美を戒め、質実剛健たるべし、一)温情友愛の精神を発揮し、家庭的美風を作興すべし、一)神仏を尊崇し、報恩感謝の生活を為すべし、の五か条から成っています。ここに掲げられている内容は、いずれも豊田佐吉の精神を表現したものと考えてよいでしょう。

「研究開発を〈勘と努力〉で開くモノ作りの魂」

 豊田佐吉は、1867年、遠江国、浜名湖の西にある敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)で生まれました。豊田家は、百姓の傍ら、大工で生計を立てていました。豊田佐吉は、幼い頃、寺小屋に通い、その寺小屋が下等小学校として開設されると、佐吉は四年間、通学して卒業しました。

 佐吉は、小学校を卒業した後、父について大工の修業を始めました。しかし、18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会の役に立とう」と決心し、手近な手機織機の改造を始めます。そのような佐吉の研究開発の魂は、画期的な織機の発明につながるならどこへでも飛んでいって学ぶという、いわば、「発明のためのさすらい人」とも言うべき行動力を見せ、東奔西走する佐吉が、故郷にじっとしている姿はほとんど見ることができないほどでした。周りの人々も、この子は一体どうなることやらと心配しても、本人はお構いなしです。

発明のためのさすらい人は、まさに、良い意味で破天荒な人格の持ち主でした。

 特に、記さなければならない出来事は、石川藤八(1864-1914)との出会いによって、佐吉の人生は大きく開かれ、その後の発展にプラスする運気が訪れたことです。藤八は、佐吉を支援した愛知県知多郡乙川村の庄屋、経営者です。藤八は、佐吉を自宅の二階に住まわせ、力織機の完成のための支援をしました。昼も夜もなく発明に没頭する佐吉の姿を見て、藤八は佐吉の人柄を気に入り、いろいろと佐吉のために便宜を図るようになります。

 佐吉の研究ははかどり、図面から試作へ、試作から試運転へと順調に進み、ついに、1896年(明治29年、佐吉29歳)に幾多の困難を乗り越えて、力織機を完成させました。この力織機(豊田式木鉄混製力織機)が初出荷され、順調に稼働して見事な綿布が織り上がるのを見た三井物産本社が、佐吉の力織機に注目し、ここに大きな発展の契機を掴みます。

2022年6月13日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

第137回 深智録「高橋是清④:逆境も転じて順境たらしめる」

「心の持ちようで逆境は順境に変えられる」

 高橋是清の自叙伝や言葉を研究してみると、彼の人間性が非常によく伝わってきます。高橋是清の人生は、そもそも、出生のその時から、庶子として生まれた事実により、波乱万丈を告げられたような人生を始めなければならなかったと言えます。

 それでも、神は高橋是清に大いなる慈悲を注いで下さったと見なければなりません。それは彼の不屈の精神のゆえであり、少々の逆境にも動じない楽天性のゆえであり、受け身で生きているようでありながら、一旦、任務を受ければ、命がけで任務の達成に全力投入するその姿に、人々は尊崇の念を抱かざるを得なかったということです。

すなわち、人に好かれる人徳を有しており、人から頼まれると必ずやり遂げるその誠実な取り組みと行動力によって、高橋是清に対する評価は、高まりこそすれ、失われることは、ほとんど、なかったと言ってよいでしょう。

彼が内閣総理大臣にまで登り詰め、自身の内閣を率いるに至った強運、また、7回にわたる蔵相の大任において見せた財政家としての能力の高さなどを見ると、彼は有能な政治家であったと言わざるを得ません。

 日露戦争時において、戦費の調達に走った是清は、英国を舞台に、その英語力をフルに活かして懸命の努力をします。最終的に、1億500万ポンドの巨額な資金を調達した腕前は、正直に言って、神懸ったものです。大国ロシアとの戦争ほど、無謀な戦争はなかったと、振り返れば振り返るほど思わずにはいられない戦争であったはずですが、「戦争は金がかかる」のは当然で、その大金を、英米を味方につけ、英米の投資家から資金調達に成功した高橋是清の尽力は、筆舌に尽くし難いものがあります。

 「逆境も心の持ちよう一つで、これを転じて順境たらしめることもできる」という高橋是清の言葉は、「心の持ちよう一つ」で、あらゆる逆境を乗り越えていった彼の人生を物語っています。逆境の連続をほとんどすべて順境のようなものに変えたのです。

「高橋是清の死によって日本は本格的な軍国主義へ突入」

 思えば、高橋是清の人生は、最後に、2・26事件という陰惨な事件の中で、死を遂げるという結末で閉じられるわけですが、それは、日本の運命を狂わせた出来事であり、その事件以降、日本は軍国主義の道をまっしぐらに進み、果ては、太平洋戦争へと繋がる亡国の坂道を転がり落ちていく趨勢を見せました。高橋是清をもってしても、食い止めることができなかった軍部の暴走は、米軍による無謀な原爆投下によって、終わりを迎えます。

 「我を去り私心をなくす、そうして自然の大道と己を一緒にしてみると、生死というものがなくなってくる」という境地を述べた高橋是清ですが、生死というものを超える心境を語るには、よほどの深い悟りに立たなければなりません。その秘訣は、「私心をなくす」ことであり、「自然の大道(神の御心)と己を一つにする」ことであると語っています。大きな仕事をする人物は、私心があってはならず、神の御心(愛と真の心)に沿って、物事に当たらなければならないと言っています。高橋是清の魂の輝きを見る思いがします。

2022年6月6日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

第136回 深智録「高橋是清③:世界恐慌の影響を克服する」

「高橋是清のデフレ退治」

 高橋是清の功績は、1929年に始まった「世界恐慌」の日本への影響をいち早く克服し、経済的な苦境を脱したということです。世界恐慌を、世界で一番早く抜け出したのは、実は、日本でした。大正から昭和初期の日本財政の舵取りをしたのが、高橋是清であり、彼の功績は、真の愛国者として認められなければなりません。

 1920年代、日本は、第一次世界大戦時の軍需物資輸出による好景気も終わり、輸出が止まって、戦後不況がやってきます。これに追い打ちをかけたのが関東大震災(1923年)でした。東京・横浜が壊滅的な被害を受け、資産を失った銀行や企業が発行した震災手形が不良債権化します。

 第一次世界大戦中、金の流出を防ぐため、各国は金本位制を離脱しましたが、戦後、貿易拡大のために次々と金本位制に復帰します。日本国内でも、金本位制への復帰(金解禁)によって輸出を拡大し、景気回復につなげると同時に、経済を自由化して不良債権を抱える企業を淘汰すべきだという論調が高まりました。

 1927年3月14日、片岡直温蔵相が、「渡辺銀行、支払い停止」を「渡辺銀行、破綻」と、メモを誤読して答弁したのをきっかけに、人々がパニックに陥り、一斉に預金引き出しに走ったことが、多くの銀行を休業に追い込み、「昭和金融恐慌」を引き起こしました。

 若槻内閣は総辞職し、田中儀一内閣が発足、高橋是清が蔵相となり、日銀総裁の井上準之助に命じて大量の紙幣を印刷させます。札束を銀行窓口に積み上げて見せた結果、パニックは収まりました。次の濱口雄幸内閣の蔵相になった井上準之助は、念願の金解禁を断行します。ところが、すでに世界恐慌が始まっており、「嵐の中で雨戸を開ける」結果となり、大量の金を流出させて、日本経済は再び、デフレ不況に陥ります。

「真の愛国者が国賊扱いにされ射殺される」

 陸軍の青年将校たちは農村出身者が多く、彼らの間では、「満州への移民による失業の解決」、「悪徳資本家と腐敗した政党内閣の打倒」、「軍事政権樹立」という昭和維新の運動が起こり、その結果、満州事変(1931年)を引き起こします。

 犬養毅内閣の蔵相として復帰した高橋是清は、デフレ退治に取り組みます。金本位制離脱、日銀による紙幣増刷、大規模な公共事業、これらの政策を遂行します。軍の暴走は、不況が原因であったため、何よりも景気対策を最優先したのです。この結果、日本は世界最初に世界恐慌から脱却することに成功します。高橋是清のケインズ型の政策が功を奏します。

 景気回復が軌道に乗り、デフレ脱却を確認した高橋蔵相は、一転して緊縮財政に転じます。際限なき紙幣増刷は、インフレをコントロールできなくし、予算の無制限の拡大は財政破綻に繋がります。しかしこのことが、過激な青年将校たちの恨みを買いました。

 5・15事件(1932年)で犬養首相が暗殺されたとき、高橋蔵相は無事で、首相代行を務めました。しかし、2・26事件(1936年)では、私邸に乗り込んできた青年将校らによって、高橋是清は射殺されました。彼の死によって、暴走する軍拡と戦争の時代が始まります。

2022年5月30日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

第135回 深智録「高橋是清②:日露戦争を勝利に導いた影の立役者」

「高橋是清が見せた英米とのしぶとい交渉力」

 高橋是清(1854-1936)が生きた時代を俯瞰すると、世界も日本もまさに激動の時代でした。日本では、明治維新(1868年)、日清戦争(1894年-1895年)、日露戦争(1904年-1905年)、日韓併合(1910年)、関東大震災(1923年)などがあり、世界では、普仏戦争(1870年)、南北戦争(1861年-1865年)、第一次世界大戦(1914-1918年)、ロシア革命(1917年)、世界恐慌(1929年)など、多くの戦乱、経済恐慌などが相次ぐ時代でした。

 こういう国際環境の時代にあって、とりわけ、高橋是清の才能に日本政府が注目した出来事が、対ロシア戦争に対して、大きなネックになっていた戦費調達という問題でしたが、それを高橋是清が見事に突破し、解決してくれたことです。おそらく、この戦費調達という難事を解決できなかった場合、日露戦争は敗北を喫していたことは確実です。

 日露戦争を外務大臣として指導したのは、小村寿太郎ですが、小村を苦心惨憺させていたのが、戦費調達です。戦費をすべて日本国内で調達するのは不可能であり、外国公債に頼らざるを得ない状態でした。英米など、各国の予想はロシアの優勢であり、負ける国の債券を引き受けてくれる国はあるはずもないという状況下で、当時、日銀副総裁であった高橋是清は英国のロンドンに渡って孤軍奮闘します。

1904年2月24日に出国し、1905年1月10日に帰国するまで、高橋是清はロンドン滞在を中心として、また、米国滞在を含め、戦費調達に奔走します。具体的には、公債を英国および米国の金融関係者に買ってもらい(投資してもらい)、ロシアとの戦争に備えるということです。この役割を担ったのが高橋是清であり、これは非常にタフな仕事でした。高橋是清は、少々のことには動ぜず、日本の公債を購入してもらうために叡智を絞り、尽力します。もちろん、彼の英語力が物を言ったのは言うまでもありません。

「ヤコブ・シフの協力と彼の思惑」

 日露開戦(1904年2月4日)ののち、ロンドンで日本公債発行に奔走する高橋でしたが、鴨緑江会戦(1904年4月30日~5月1日)での勝利で一気に事態は好転し、米国投資家のヤコブ・シフ(ユダヤ人)も加わり、たちまちロンドンでの第一回目の1000万ポンドの公債発行を成功させました。実はこの米国クーン・ローブ商会の社主ヤコブ・シフは、ロシアがユダヤ人迫害(ポグロムと呼ばれる、ポグロム=破滅の意)を歴史的に行ってきているので、ロシアを弱体化させる目的で日本の勝利を願ったのです。彼が500万ポンドの投資を快諾した背景は、そういう所にあります。シフは強烈な反ロシアでした。

 高橋是清は、1904年11月8日、第二回目の公債発行の仮契約を結びます。その額、1200万ポンド、第一回目を上回る金額です。米国と英国の世論が日本の勝利に向けて動いていったことは明らかです。もともと、英国とは日英同盟(1902-1923)を結んでいましたし、米国には高橋是清に個人的にも好感を覚えていたヤコブ・シフがいたことなど、また、高橋の熱心さに英米が打たれたことも手伝って、戦費調達の難題を高橋は、結果的に成し遂げ、日露戦争を勝利に導きました。高橋是清の粘り強い交渉力が勝利の一因となりました。

2022年5月23日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

第134回 深智録「高橋是清①:生い立ちと略歴」

「高橋是清の財政家への道」

 高橋是清(たかはしこれきよ、1854-1936)は、明治から昭和にかけての財政家であり、政治家ですが、とりわけ、彼の名を高くしているのは、日本の経済危機を救った財政の天才であることが大きな理由です。

 高橋是清は、1854年、江戸幕府御用絵師であった川村家に生れますが、養子に出され、仙台藩士の高橋是忠の養子として育ちます。11歳になった是清は仙台藩の命令で、横浜のヘボン塾(現在の明治学院大学)で英語を学び、14歳でアメリカ留学をします。翌年、帰国すると、アメリカで知遇となっていた森有礼の書生となり、英語教師などを務めました。

 高橋是清は、その英語力のみならず、人徳のある人物であったため、さまざまな職業に就きます。能力を買われて官界入りを果たし、さらには金融界で活躍していくこととなります。1873年、森有礼の薦めで文部省に出仕し、そののち、農商務省の官僚として活躍しました。1887年には、初代の特許局長にまで昇進します。そのとき、当時の日本銀行総裁であった川田小一郎から声をかけられ、日本銀行に入行しました。日銀で財政家としての才能を磨いた彼は、1899年、日銀副総裁就任のとき、日露戦争の遂行のための戦費調達をしなければならず、英米に渡り、外債の募集に成功しました。1911年には日銀総裁として金融界のトップの座にまで出世します。

「日露戦争への巨額の戦費調達、さらに恐慌を乗り越えた高橋財政」

 財政家としての能力によって、高橋是清は、1913年、第一次山本権兵衛内閣で大蔵大臣となり、総理大臣を一回、大蔵大臣を七回務めました。その活躍ぶりは大蔵相として世界恐慌から日本を抜け出させるなど、「日本のケインズ」と呼ばれるほどでしたが、1936年、二・二六事件で暗殺され、82歳の生涯を閉じます。

 高橋是清は、日銀副総裁のとき、日露戦争に必要な軍資金1億500万ポンドという巨額の資金を、英米で調達することに成功し、帰国します。すなわち、日本の公債を英米に売り、投資をしてもらうことで、必要な戦費を稼ぎ集めました。まだ、国際的な信用度の低かった当時の日本にとっては、困難な仕事でしたが、アメリカとイギリスに出張し、1億500万ポンドの資金獲得に成功します。驚くべき、交渉力であり、集金力です。

 高橋是清は、第一次山本権兵衛内閣、原敬内閣、および自身の内閣でも大蔵大臣を務め、さらに、田中儀一、犬養毅、斎藤実、岡田啓介の内閣でも蔵相を務めます。そのうち、1931年から1936年の間、犬養毅、斎藤実、岡田啓介の内閣時代に実施した改革が、いわゆる、ケインズ型の政策としての「高橋財政」であり、彼の名を高からしめているものです。

 先代の蔵相であった井上準之助の金輸出解禁と緊縮財政が失敗し、日本も昭和恐慌に入りました。それを、高橋は金の輸出を再度禁止し、モラトリアム(支払い猶予緊急勅令)や大量の国債発行で対抗します。軍の予算を増やし国家的土木事業を行うことで、日本の景気回復を図ったのです。これが、高橋是清を「日本のケインズ」と呼ぶ理由です。波乱万丈の人生にもかかわらず、強運を見せましたが、2.26事件で暗殺され、その人生を閉じます。

2022年5月16日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

 

☝法人会員・個人会員・Web会員にご入会いただくことで、過去の全ての「深智録」をご覧いただけます。

渋沢栄一・カーネギー・二宮尊徳・ピーター・ドラッガー・近江商人・石田梅岩・アンドリュー・カーネギー・トーマス・エジソン・岩崎弥太郎・ヘンリー・フォード・クレイトン・クリステンセン・ビル・ゲイツ・スティーブ・ジョブズ・田中久重・ジョン・ロックフェラー・松下幸之助・その他、世界を変えた経済人・経営者について深い視点で学ぶことができます。