深智録 第87回「住友グループの物語(2):業祖としての蘇我理右衛門」

 

「銅吹屋の蘇我理右衛門」

 最も古く長い歴史を持つ住友財閥の始祖を語る場合、どうしても語らなければならない人物が蘇我理右衛門(1572-1636)です。住友政友の姉の周栄が蘇我理右衛門に嫁いでいましたから、理右衛門は政友より13歳上の義兄に当たります。政友が空禅として涅槃宗を京で説いていた時、熱心な信者として加わっていたのが理右衛門です。理右衛門は財を持った強力な信者で、銅吹屋(銅精錬業者)「泉屋」の当主でした。住友政友(家祖)と蘇我理右衛門(業祖)、この二人のコンビネーションが住友を興したと言ってもよいでしょう。

理右衛門は、1590年、京都の寺町通で銅吹業を始めました。1596年、「南蛮吹き」と言われる銀・銅の吹き分けの革新的な技術を実用化し、その後の住友の事業の基盤と発展に大きく関わることになります。方広寺の大梵鐘の用銅二万二千貫(82トン)を納めたのも、理右衛門でした。理右衛門は、1636年に、大阪の長堀南側1丁目(現在の中央区島之内1丁目)に泉屋住友の銅吹き所を開設します。その場所は海運の良さが何と言っても大きな利点であり、銅吹き屋、銅問屋、銅仲買、銅細工屋が次々に集まって、まさに、世界有数の銅の街となりました。その立役者が、理右衛門であり、理右衛門の長兄の友以でした。住友政友の息子政以の妻の亀は、夫を失ったのち、理右衛門の息子友以の妻となっています。亀は二人の義父(住友政友と蘇我理右衛門)に仕えたことになります。39歳と40歳のとき、友以との間に友信と友貞を儲けていますから、役割を立派に果たしたと言えます。友以亡き後、友信は泉屋三代目、友貞は両替商になり、住友の事業は基盤を整え、大発展へ向かいます。

「銅山の経営で盤石な基盤を確立」

 住友の大発展の大きなきっかけとなったのが、銅山の経営に踏み出したことです。泉屋三代目の友信は、銅吹きだけでなく、備中(岡山)の吉岡銅山、出羽最上(山形)の幸生銅山など、銅山経営に乗り出します。友信は39歳で、家督を息子の友芳に譲り、友芳を指導しました。吉岡銅山の田向重右衛門からもたらされた一つの情報は、伊予(愛媛県)の山中に巨大な銅山が眠っているというもので、その真偽を確かめるべく、現地調査した結果、まさしく、銅そのものの山と言ってよい「別子銅山」の宝の山を見つけたのです。

 天領の中にあった別子銅山の経営権を、幕府と交渉し、5年間の稼業許可を、1691年に頂きました。1694年の別子銅山の大火では132人の死者を出すなど、試練はあったものの、その翌1695年には産銅量百万斤(600トン)を超える勢いとなります。祖母の亀は幕府から永代稼業の許可を取るようにとの忠言を残し、亀は89歳の天寿を全うしました。

友芳は幕府との難しい交渉をついに勝ち取り、住友は別子銅山の永代稼業の主となったのです。1697年、日本の産銅量は世界一で、そのうちの四分の一を泉屋の銅が占めました。別子銅山は1691年の開坑から、その後、約300年に亘って、経営されました。この泉屋住友の銅は日本の主要輸出品として世界へ輸出されました。銅山経営は、住友を大きな財閥へと育て上げる動力の役割を立派に果たしたことは間違いありません。

2021年4月5日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

深智録 第86回「住友グループの物語(1):初代住友政友と彼の宗教精神」

 

「涅槃宗の僧侶としての住友政友」

 住友政友(1585-1652)は、創業400年の歴史を誇る住友グループの家祖です。政友は、12歳で、越前丸岡(福井県坂井市)から京へ上り、武士の身分(柴田勝家に仕える)を捨てて、涅槃宗開祖の空源の弟子入りを果たし、空禅と名乗りました。当時の後陽成天皇の庇護も厚く、涅槃宗は信徒が増え、寺の数もどんどん増える趨勢でした。しかし、後陽成天皇崩御の後、1617年から法難が押し寄せ、邪教扱いの迫害を受ける受難時代へ入りました。

 江戸へ護送された空源と空禅の師弟は、幕府の評定により、空源は厩橋藩(前橋藩)屋敷へお預けとなり、空禅(住友政友)は下総佐倉藩へお預けとなりました。1618年、空源は病死、空禅は配流を許され、京へ戻ります。そのとき、江戸の信者であった岩井家の娘、亀が一緒に京へお供し、彼女は空禅の息子、政以の妻となります。

 1626年、涅槃宗は幕府によって、天台宗の一派とする裁定が下され、空源の息子、賢海に近江坂本の大覚寺を与えました。涅槃宗の行く末を見届けた空禅は、安堵の気持ちと共に、自らの新しい道へ踏み出します。それは、員外沙門、即ち、僧であって僧でないという立場で、涅槃宗の法灯を継承するという道です。

それによって、1628年、空禅は還俗して、京都の上柳町で、薬種(薬屋)および書林(出版・書籍販売)を商う「冨士屋」を経営するようになりました。住友政友は齢44歳になっていました。これが、住友グループの生業のはじめであり、それはやがて大きな一大産業を起こす未来への布石が置かれた瞬間でもありました。薬は人の躯(からだ)を救い、書籍は人の心を救う。仏門に身を置かなくても、人を助けることはできる。政友はそう考えたのです。涅槃宗で人を救うという善行を積んだ政友は、新たな救いの道を拓いたわけです。

「住友政友の商訓」

 政友は、旨意書きを残し、誠実な商売の心、堅実な商いの心をもって、お客に尽くすことを説いています。いわゆる、『文殊院旨意書』と呼ばれるものです。「すべてのことについて心を込めて励むように」「相場より安いものが持ち込まれても、出所の分からないものは盗品と心得よ」「誰であろうと宿を貸したり、物を預かるな」「他人の仲介や保証に立つな」「掛け売り、掛け買いはするな」「他人がどのような酷いことを言っても、短気になって言い争いはせず、繰り返し詳しく説明するように」と教えています。

 この旨意書きを見ると、ただ金儲けに走ればそれでよいというような考えは毛頭ありません。やはり、宗教家であっただけに、「正直」「慎重」「確実」といった人格の形成に重きを置き、立派な人間性を醸成することを通して、商売をしなさいと言っています。政友の宗教的な真面目さがにじみ出ています。

 文殊院旨意書の精神が、住友精神の原点であると見るならば、基本的に、住友精神の核に、正直、慎重、確実といった遺伝子が、色濃く残っていると考えられます。創業400年の風雪を耐え抜いた住友は、初代政友の宗教心に支えられた企業軍団であると言えるでしょう。

2021年3月29日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

 

深智録 第85回「三井グループの話(4):大正、昭和を駆け抜ける」

 

「戦前から戦後へと時代の波を超えていく」

 20世紀前葉の帝国主義、軍国主義時代を国家政策とともに歩調を合わせ、生き抜いた三井の商魂は、怖いものなしの勢いを示しました。世界初の総合商社である三井物産を設立した益田孝(1848-1938)、三井財閥の総帥として敏腕を揮った団琢磨(1858-1932)、など錚々たる人物たちの活躍の中で、戦前の三井は事実上、ナンバーワンの財閥であったと言っていいでしょう。1673年、三井高利が、江戸に「越後屋三井呉服店」(三越)を開店したときから数えて、二百数十年後の三井グループが、実質的に日本経済を主導する屋台骨の位置に就いたことを、三井高利はあの世からどのように見ていたのでしょうか。

 しかし、戦争が終わり、GHQが財閥解体を命じて、旧財閥はそれぞれ新たな出発を強いられることになりました。解体による弱体化を免れることはできなかったとは言え、蓄積された商いのノウハウとDNAはそう簡単に消えるはずもなく、再び立ち上がっていくのです。現在、三井と言えば、その御三家である「三井物産」「三井不動産」「三井住友フィナンシャルグループ」を誰もが思い描くことでしょうが、そのほかに、「三井金属」「東レ」「三井造船」「三井化学」「三井住友トラストホールディングス」など、数多くの仲間たちがいます。三菱の結束力ほどではない「緩やかさ」の連合体とも言われるのですが、逆転の発想で言えば、「緩やかさ」の強みがあるということもできます。緩やかであるから人々はそこに自由に集まり、緩やかであるからまた人は去っていく。その利点に立てばいいのです。

「二人の女が支えた三井家の草創期」

 三井家において、一代目三井高俊の妻であり、二代目高利の母である三井珠法(1590-1676)の存在感が強調されたことは故なしとしません。高利の三男高治の記した『商売記』を見ると、珠法について「若き時分より天性商い心、始末、費(ついえ)をいとひ、古今めづらしき女人」と記しています。天性が商い心というのですから、珠法の遺伝子がその後の三井家の後孫たちに拡散していったと見られます。彼女は、1602年、永井家から高俊に嫁いできましたが、伊勢の大商家の娘でした。高利との間には四男四女を儲けました。

 高利の妻は「かね」と言い、高利の『商売記』によれば、「天性慈悲心深き人」とあり、伊勢の豪商の長女でした。高利とかねとの間には15人の子を儲け、八男三女を育てるという子宝に恵まれました。強い「珠法」と慈悲心に満ちた「かね」は、どちらからどちらへともなく、思いやりをもって支え合う関係が出来上がっていたのではないかと思われます。

 およそ、事業を起こすもの、事業に関わる者、家内安全ではありませんが、家の中が良く治まっていなければ、事業の成功などあり得ないと言ってよいでしょう。その意味からすれば、三井家の草創期における二人の女性の存在は、特筆すべきものであり、これらの女性があったればこそ、高俊も高利も大いに成功を得ることができた果報者であったと言うことができます。永続する一大事業を作り上げるのに、男だけでは無理であり、それを支える賢明な女がいてこそ、事業は大成するものと心得るべきでしょう。

2021年3月22日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

深智録 第84回「三井グループの物語(3):幕末から明治期へ」

 

「幕末期を乗り越える」

 江戸幕府と緊密な関係を築いていた三井家にとって、徳川政権を倒す薩長連盟の動きは歓迎すべきものではありませんでした。幕末から明治維新にかけて、三井家はどういう動きを取ったのでしょうか。ここに登場する人物が三野村利左衛門(1821-1877)です。

利左衛門は、庄内藩鶴岡の出生ですが、父と共に諸国を放浪する中で、江戸の深川で小栗家の奉公人となり、やがて紀ノ国屋の美野川利八の養子になります。そして、地道に資金を蓄え、両替商になりました(1855年)。そして小栗忠順から小判吹替の情報を得て、天保小判を買い占め、巨利を得ます(1860年)。

この出来事で、世間的名声を高め、三井家から見込まれて、幕府から命じられた御用金50万両の減免交渉を任され、これを成功させます。この成功をきっかけに、三井に勤めることとなり、「通勤支配」(取締役)に任命され、三野村利左衛門に改名します。三井家としては異例の外部招聘である利左衛門ですが、彼は時代を見るのに敏感で、幕府側と薩長側の両方の動きを察しながら、激動の幕末と明治新政府の誕生の中を泳ぎ渡ります。

明治維新とともに、三井に対して、新政府への資金援助をするよう進言し、動乱期を乗り越えます。利左衛門は、1873年、渋沢栄一の総監役のもと、三井組と小野組が共同出資する形で、「第一国立銀行」を設立します。利左衛門は明治維新政府との関係を深める中で、三井の内部改革を、大隈重信の訓書に従って遂行します。こうして、1876年には、三井銀行の設立に至りますが、金融を国家の統制下に置きたい明治政府と、自己の銀行を構えたい民間精神のしのぎあいの中での三井銀行の設立は、その後も、苦労の多い道のりになります。

「工業化路線で明治日本を支える」

 もともと、江戸期において、呉服業と両替業の二本立てで、ビジネスを展開するモデルを持っていた三井家は、明治の世にあっても、生産業と銀行業の両輪という形を忘れることなく、工業化路線をしっかりと敷き、特に、政府の要望に応える形での事業をも含め、果敢に重厚長大な事業を起こしていきます。三池炭鉱、神岡鉱山への進出、芝浦製作所を三井の傘下に収めたこと、三井船舶、三井造船、東洋レーヨンなどを起こし、多角的な業種に着手したこと、などを見ても分かりますが、まさしく勇猛果敢な事業の展開です。

 三井は、職工に対する教育を銀行などのホワイトカラーと同じく、優遇しました。職員層(ホワイトカラー)と行員層(ブルーカラー)を区別しない「経営家族主義」「温情主義」が三井の特徴と言われ、官尊民卑の風潮が強い当時の社会背景から見ると、先駆的な労働管理思想を実践したと言えます。

 三井財閥は、1909年、三井合名会社を頂点とするコンツェルン体制を確立しました。その後、多くの財閥が三井に倣い、傘下の諸事業を株式会社としてピラミッド型に統合する形が、日本において、一般化しましたが、それは、生産と貿易、それを担う商社の飛躍的発展という結果をもたらしたことは、20世紀の日本を経済大国たらしめた要因にもなりました。

2021年3月15日

共創日本ビジネスフォーラム研究所

 

深智録 第83回「三井グループの物語(2):三井高利と高平の父子」

 

「公金為替の仕組みを幕府に提案」

 東は金貨、西は銀貨、この不便さは、例えば、江戸の呉服店が京都の西陣で仕入れをするとき、金貨から銀貨への両替コストが発生します。また、為替変動リスクにも晒されます。反対に、江戸幕府が上納金を集めようとすると、大阪城に各藩から集まった年貢米や産物を売って得た銀貨を金貨に換える作業が発生し、現金輸送するまで、数十日がかかっていました。ここで、三井高利は、幕府に「公金為替」の仕組みを提案し、それを幕府も受諾します。

その内容は「幕府の大阪御用金蔵から公金を三井両替店が銀貨で受け取り、2~5カ月後に江戸城に金貨で納める」というものです。三井両替店にとって、公金為替から得る収入はわずかです。しかし、巨額の資金を数か月間無利子で動かせます。大阪で受け取った銀貨を越後屋の京都での仕入れに使って、江戸城への納金は、江戸での売り上金から行い、それによって、低コストでの仕入れが実現するという寸法です。また、大量の現金(銀)を東西に動かすコストもリスクも消えます。

1691年、三井高利は、「大阪御金蔵銀御為替御用」の肩書を得ました。この仕事で、三井家は、明治維新まで続く収入源を確保して、同業他社からの妨害を防ぐ役目にもなり、安定的な近代銀行業の布石を打ったと言えます。

「一族の企業統治の仕組みを考案した三井高平」

 三井高平は、高俊の孫、高利の長子ですが、一代、二代の粉骨砕身の尽力のお陰で、豪商として拡大発展する一族の事業の規模と資産を前にして、事業の継承および持続的発展をどうするか、そのことを考えざるを得ない立場にありました。

 高平は、1710年、呉服業と両替業、江戸と大阪、京都の20店舗、これらの全事業に対して「大元方(おおもとかた)」を設置し、統括機関とします。すべての資産や資本はこの大元方が一元管理し、各店へ資本金を出資します。各店は半期ごとに帳簿と共に利益の一定額を大元方に上納し、三井一族11家への報酬は大元方から支払われました。現代において、いわゆる、「持ち株会社」と呼ばれる仕組みを作ったのです。

 この「持ち株会社」の仕組みによって、三井家は江戸時代の好不況の波も乗り切り、明治維新の衝撃も生き抜いて三井財閥を形成します。三井家の繁栄の基礎は、高俊、高利、高平という三代のご苦労のお陰ですが、特筆すべきは、初代の高俊の妻、三井珠法です。彼女は

商才に長け、二代目の高利の才気は母親である珠法ゆずりであったと言われるほどです。母親からの影響を強く受けて、高利は商の道を拓き、大きく発展させることができました。

 二代目、高利の両替商の着手は、大阪城に蓄積される銀貨を江戸の金貨圏に流すことにより、両替商と呉服商の二大事業を組み合わせた収益モデルを生んだと言えます。三代目、高平は両替商と呉服商の二大事業を統治するシステムを完成させます。それが、「大元方」という一種の持ち株会社でした。江戸初期における商いの常識を次々に刷新し、新しいビジネスモデルに挑んだ三井の商魂は、明治以降、現在に至って、なお輝きを保っています。

2021年3月8日

共創日本ビジネスフォーラム研究所